リード
これまでの記事(1)(2)でコーヒー豆の価格の内訳や動向に触れていく中で、
ドイツには世界でも珍しいコーヒー税があることを知り、
そして、そのドイツが歴史的にも立派なコーヒー大国であることをお伝えしてきました。
ドイツか、、、遠いヨーロッパの国へいつか行ってみたい、、、と物思いにふけっていましたが、、、そのドイツと深い関係にある国が意外にもアジアにあるではありませんか、、、
それは、、、「ベトナム」
ベトナムと言えば、、、フォーやバインミー、アオザイ、ではなく、、、コーヒーの生産量でブラジルに次ぐ世界2位を誇るコーヒー生産大国。世界全体の約20%を占めています。
実はそのベトナムのコーヒー史を語る上で欠かせない存在が「東ドイツ」なんです。
今回は、この2つのコーヒー大国のストーリーについてお伝えしたいと思います。
1977年、東ドイツからコーヒーが消えた
発端はブラジルでした。
1975年7月、「黒霜(Black Frost)」と呼ばれる大寒波がブラジルのコーヒー産地を襲い、コーヒー樹の約3分の2が被害を受けます。国際価格は1975〜77年で約4〜5倍に高騰しました。
高くなった。それだけなら、どの国も同じです。
ところが。
東ドイツには、致命的な弱点がありました。
自国通貨のオストマルクは非兌換通貨(外国のお金と自由に交換できない通貨)で、国際市場では使えません。生豆を買うには、西側のハードカレンシー(ドルや西ドイツマルクのような、国際的に信頼され自由に使えるお金)が要ります。
そして、その外貨が足りていませんでした。
- 1975年のコメコン(東側諸国どうしの経済協力の枠組み)原油価格改定で、ソ連産原油の輸入価格が1976年に約2.5倍へ
- 限られた外貨は原油などの必需品に優先的に回された
- 西側への累積債務は、1975年の約110億DMから1979年には250億DM超へ
つまり、コーヒーに回す分のお金が、物理的に消えたわけです。
政府内では、コーヒー輸入の完全停止案まで出たそうです。
でも、それは退けられました。理由は、国民の反発を恐れたから。
対外的には、バーター取引(お金を介さず物と物を直接交換するやり方)で確保を試みます。エチオピアには武器・弾薬・トラックを渡して年5,000トンの生豆を、アンゴラにはトラックと技術支援を渡してコーヒーを。
一方その頃、西ドイツ側ではコーヒーに独立した税金がかかり続けていました。同じドイツでも、コーヒーをめぐる事情はまるで別物です(前回記事参照)。
「エリッヒの戴冠」——代用コーヒーが半年で消えるまで
そして1977年8月、国内向けの答えが出ます。
代用コーヒー「Kaffee-Mix」の投入です。
中身は、本物のコーヒー豆と代用材料がおおむね半分ずつ(資料により51%対49%とも記されます)。代用材料はライ麦、大麦、チコリ、ビートパルプ、エンドウ豆粉など。価格は125gで6マルクでした。
同時に、安価な100%コーヒーの銘柄「Kosta」が廃止されます。
安いほうから消えた、ということです。
市民の反応は、記録に残っているだけでもかなりのものでした。
1977年後半だけで、国家評議会に約14,000件の苦情書(Eingaben)が集中したそうです。これは同じ年に寄せられた全苦情のなんと約23%に値するとか。
コーヒーだけで、4件に1件。
実害も出ました。エンドウ豆粉が抽出機の中で膨張して固まり、コーヒーマシンの故障が続発したのです。
飲めないだけでなく、機械まで壊れる。
そのうち皮肉なあだ名がつきます。「エリッヒの戴冠(Erichs Krönung)」、そして「エデショ(Erichs Devisenschoner=エリッヒの外貨節約器)」。当時の指導者の名前と、西側の有名なコーヒー銘柄をかけた言い回しです。
そこで政府も手を打ちました。
- 1977年9月23日、価格を6.00マルクから4.00マルクへ緊急値下げ
- 同年11月、コーヒーの比率を66%へ引き上げ
- 同じく9月、西ドイツからの仕送り小包(Westpaket)に持ち込めるコーヒーの数量制限も撤廃
それでも、ボイコットは収まりませんでした。
結果、1978年1月に政治局がKaffee-Mixの生産・流通の完全中止を決定。100%コーヒーの通常流通に戻ります。
投入から、わずか半年ほど。
代用品でごまかす作戦は、完全に失敗したわけです。
国が出した答えは「産地を自分で作る」——ベトナム・ダクラク省へ
では、根本的にはどうするか。
東ドイツが出した答えが、これでした。
買えないなら、産地を自分で作る。
1980年と1986年、二つの協定
舞台は、ベトナムの中部高原・ダクラク省周辺です。
玄武岩由来の赤い土で、ロブスタ栽培には適地とされる土地。
1980年と1986年、東ドイツとベトナムのあいだで二つの政府間協定が結ばれ、開発の拠点として「ヴィエト=ドゥック(越独)農業コンビナート」が設立されました。
東ドイツが送り込んだもの
リストを見ると、規模感が伝わってきます。
- スレポック川流域の「ドライ・リン水力発電所」(12MW、約2,000万米ドル)
- 灌漑用のスプリンクラー、加工・乾燥施設
- ブルドーザーや掘削機などの農業機械、「IFA W 50」トラック、化学肥料・農薬
- 農業科学者やエンジニアの常駐派遣
- 移住労働者向けの住宅・病院・学校、簡易道路100km超と舗装道路35km(対象は約1万人)
畑を作るというより、町ごと作りに行っているという印象です。
面積の数字も残っています。東ドイツが着手した拠点は約600haから8,600haへ拡大し、1986年の第2次協定でさらに5,000haを積み増して、最終目標は10,000ha。
※ただしこの「約600ha」は、東ドイツが手をつけた近代的プランテーション部分を指す数字です。ベトナム全土の零細な農地まで含めた集計では6,000〜20,000haという別の数値も出てきており、資料によって前提が揃っていません。
見返りは「20年間、収穫の50%」——そして誰も受け取らなかった
もちろん、無償の善意ではありません。
契約は「今後20年間、収穫量の50%を東ドイツへ現物で返済する」というものでした。
コーヒーの木は、植えてすぐには実りません。最初の本格的な収穫は、8年ほどの生育期間を経て1990年に見込まれていました。
……が、ここで落とし穴。
その1990年10月に、東ドイツ自体が消滅します。
1986年に象徴的な少量の初出荷があった以外、東ドイツ側はほとんど何も回収できていません。
契約は再統一の時点で法的に失効。新生ドイツ政府はこの協力を遡及的に「開発援助」と再定義し、ベトナム側の返済債務(約6,000万バルータマルク)は実質的に帳消しになりました。
事業は「貿易」と「開発援助」に分割・民営化され、ドイツの生豆商社ノイマングループが民間ベースで取引を引き継ぎます。
そして、ベトナムに残ったものは。
負債を負わないまま、発電所も機械も道路もそのまま自国の資産として手元に残った——ということになります。
投資した側が、収穫の直前に消えた。
コーヒーの歴史の中でも、なかなかの皮肉ではないでしょうか。
では、いまのベトナムは東ドイツが作ったのか
さて、ここまで読むと、「やっぱり東ドイツがベトナムをコーヒー大国にしたんだ」と言いたくなります。
私も、いったんそう思いました。
でも、数字を並べると、話が合わなくなります。
数字を並べると、時期がずれている

東ドイツの協力があった1986年時点で、ベトナムの生産量は年間18,400トン。世界シェアは、その協力が終わる1989年になっても約1.2%でした。
1990年の生産量は約100万袋(60kg換算)。
それが1990〜2000年の10年間で、1,400%成長します。
作付面積は1997年までに13万haへ。東ドイツ時代の最終目標が10,000haだったことを思い出すと、桁が変わっています。
世界シェアも、2000年には12.4%まで上がりました。1989年の約10倍です。
つまり急拡大は、東ドイツが消えたあとの10年で起きているわけです。
1990年前後に、別の条件が同時に動いた
ではその10年に何があったのか。
調べてみると、東ドイツとは関係のない条件が、驚くほど同じ時期に重なっていました。
- 1986年開始のドイモイ(刷新政策)で、私企業と自由な経済活動が公認された
- 1988年、共産党政治局が農業集団化を事実上解体。農地の使用権が個々の農家へ譲渡された
- 沿岸部から中部高原への「新経済区」計画による組織的移住と自発的移民。1980〜90年代でキン族を中心に400万〜500万人規模
- 1989年、国際コーヒー協定(ICA)の輸出割当制度が崩壊し、輸出量の枠が外れた
- 1991年のコメコン解散と米国の貿易禁輸解除で、西側市場へ全方位的に統合された
特に大きいのは、二つ目でしょうか。
増産した分が、自分の収入になる。
作る理由が、国の計画から自分の暮らしに変わったわけです。そこへ数百万人規模の労働力が中部高原に流れ込み、売り先の枠も外れた。
いろんな条件が揃って、まさにベトナムのコーヒー生産体制は爆発したのでしょう。

私はこう受け取っています
土台を置いた人と、その上を走らせた人は、別だった。
いまのところ、この理解がいちばん納得できます。
「東ドイツがベトナムをコーヒー大国にした」とは、言い切れません。
でも、間違いなくその土台にはなったと思っています。
その歴史が、ロブスタを爆発させた?
ベトナムの生産量の96〜97%はロブスタ種です(アラビカは3〜4%)。世界のロブスタ市場の約40%、コーヒー市場全体で約20%を占める世界2位。
ロブスタが選ばれる理由は、だいたいこのあたりです。
- アラビカより安価
- 苦味が強く、ブレンドに入れても風味が埋もれない
- カフェイン含有量が高い
- さび病や気候変動への耐性が高い
- 機械での一括収穫に向き、大規模な工業的栽培に適する
ここで、さっきの歴史とつながります。
重機、灌漑スプリンクラー、水力発電所。東ドイツが送り込んだものは、そもそも大規模な機械化を前提にした設計でした。
いま棚にある「安くて、苦くて、インスタント向き」というベトナム産の顔は、その設計と噛み合って見えます。
もちろん、これは「そう見える」という読み方であって、因果として断定できる話ではありません。
ロブスタは、単体でストレートに淹れるとアラビカのような華やかな香りは出にくいとされます。
その代わり、苦味とコクの強さはロブスタならではです。
ミルクや砂糖と合わせても、風味がぼやけません。
私も今でも缶コーヒーは大好きです。
そして、ベトナム産=低品質という図式も、もう古くなりつつあります。
2010年代半ば以降、嫌気性発酵などの加工技術を使った「ファイン・ロブスタ(スペシャルティ・ロブスタ)」が登場し、通常の2倍以上の価格で取引される例も出てきたようです。私もベトナムのスペシャリティコーヒーを飲んだことがありますが、非常に繊細でクリーンな味わいでした。
40年ほどで、産地は変わり続けているわけです。
まとめ
東ドイツが置いていったものは、確かにダクラク省に残っています。
オイルショックの影響で原油価格が高騰、それに伴ってコーヒーが消えた。代用コーヒーは半年ほどで市民に拒否された
その国はダクラク省に産地を作りに行き、最初の本格的な収穫を受け取る前に消滅した
畑が世界規模になったのは、そのあとの10年
次に「ベトナム産」「ロブスタ」という表示を見たとき。
あなたは、その彼方に「東ドイツ」の面影を馳せることになるかもしれません。
参考文献
1 Kloiber, Andrew、Brewing Socialism: Coffee, East Germans, and Twentieth-Century Globalization*(Berghahn Books、Studies in German History 第27巻)、2022年:1990年代のベトナムの急拡大は、東ドイツとの10年間の二国間協力を考慮しなければ適切に理解できないとし、東ドイツの支援を決定的な起動力とみる
※ 補足として3点。①作付面積の数値は資料により集計の定義が揃っておらず、本文では前提を明示できる範囲で書いています。②Kaffee-Mix の配合比率は資料により表現に幅があるため「おおむね半分ずつ」としました。③東ドイツの寄与とドイモイ以降の要因の寄与度を定量的に切り分けた研究は、今回調べた範囲では確認できていません。


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