エチオピア産のコーヒー、、、と聞いて多くの方が思い浮かべるのは、「コーヒー発祥の地」という言葉ではないでしょうか。
私もそうでした。
イルガチェフェやシダモの華やかな香りを楽しみながら、まさかその豆が、かつて東ドイツの武器や軍用トラックと交換されていた時代があったとは、想像もしていませんでした。
以前の記事では、1977年に東ドイツで起きた「コーヒーが買えない」という危機と、その後ベトナムがコーヒー生産国として育っていった経緯を、買う側の視点からたどりました。
今回はその裏側です。買う側ではなく、売る側——エチオピアにとって、この取引がどんな意味を持っていたのかを追ってみます。
先に言ってしまうと、エチオピアにとってコーヒーは、嗜好品である以前に国家財政そのもので、その重みゆえに一時期は武器やトラックとまで交換される”通貨”として扱われていたようです。
「コーヒーの発祥地」が、なぜ武器を必要としたのか
まず、当時のエチオピアがどんな状況だったのかを、最低限だけ確認しておきます。
1974年、皇帝ハイレ・セラシエ1世が廃位されました。代わって実権を握ったのが、軍人メンギスツ・ハイレ・マリアムが率いる軍事政権「デルグ」です。デルグは「アフロ・マルクス主義」(アフリカの実情に合わせて読み替えられた社会主義路線)を掲げ、ソ連・キューバ・東ドイツといった社会主義圏へ急速に接近していきました*1。
政権は一枚岩ではいられませんでした。
1977年から78年にかけては、隣国ソマリアとの戦争(「オガデン戦争」)。同時に、北部のエリトリアやチグレでも、独立や体制転換を求める武装闘争が続いていました。国家予算の半分以上が軍事費に費やされ、国内では反対派への大規模な粛清(「赤い恐怖」)も起きていた、とされています*1。
複数の戦線を同時に抱え、しかもそれを支える外貨をほとんど持たない国、、、それが、この物語の出発点にいたエチオピアです。
コーヒーは国家収入の6割——エチオピアにとっての重み
では、そんな国にとってコーヒーはどんな存在だったのでしょうか。
総輸出額に占めるコーヒーの比率は、年によって44%〜70%台までかなり幅があります。1980年は64.50%、1988年は65.0%、一方で1990年は44.4%と低い年もありました。それでも、デルグ政権期を通じておおむね6割前後で推移していたとされています*2。
エチオピアの外貨収入のおよそ6割が、コーヒー1品目に依存していた時期が続いた、ということです。
これを国が黙って見ているはずがありません。
1977年、「コーヒー・茶開発省(MCTD)」と「エチオピア・コーヒー公社(ECMC)」が設立され、国内の集荷から輸出まで、80〜95%をこの公社が独占的に管理する体制が敷かれました*3。
農家の買付価格は、生産コスト(1kgあたり約0.57ドル)を下回る水準(約0.48ドル)に固定され、その差額は軍事費や歳入に回されたとされています*2。
農家からすれば、手塩にかけて育てた豆が、コストにも満たない値段で持っていかれるわけです。たまったものではありません。
ただ、国の側にも事情がありました。戦費を賄うための外貨が、他にほとんど残っていなかったのです。
実際にコーヒーを育てていたのは、2ヘクタール以下の小規模農家が全体の約95%を占めていたとされます。統制を嫌った農民の一部は、取り締まりの及びにくい嗜好植物「チャット」への転作や、隣国への密輸で対抗しました*2。
低い買付価格 → 農民の転作・密輸 → 正規の集荷量が不安定になる、、、という流れが、当時の農村では繰り返されていたようです。
「ドルを使わずに、コーヒーを手に入れる」——双方の思惑が一致した瞬間
一方、コーヒーを買う側の東ドイツも、深刻な外貨不足に陥っていました。1975年のブラジルの大寒波で国際価格が急騰し、自国通貨(非兌換通貨で国際市場では使えません)ではどうにもならない事態に直面していたのです*4。この経緯は以前の記事で詳しくたどっています。
ここで、双方の利害がぴたりと重なります。
エチオピア側が欲しかったのは、オガデン戦争と内戦を戦うための武器・弾薬・軍用車両・食糧でした。しかも、即座に、外貨を使わずに、です。
東ドイツ側が欲しかったのは、ドルを使わない生豆の調達ルートでした。
つまり、誰か一人が悪知恵を働かせたというより、当時の社会主義圏全体を覆っていた仕組みが、たまたまこの二国の間でぴたりとはまった、ということのようです*5。
社会主義圏では、自国通貨が国際的に交換できないため、ハードカレンシー(ドルなど国際的に信頼される通貨)不足を補う手段として、「商品対商品」のバーター取引や清算貿易が広く用いられていました。国際コーヒー協定(ICA)による輸出割当の規制が、非加盟の社会主義国向け取引には及ばなかった間隙も利用されたとされています*1。
エチオピアの事例は、東ドイツが同じ時期にベトナムやアンゴラとも行っていた、こうした「東・南貿易」の一つの典型例として位置づけられているようです。
コーヒー5,000トンと、トラック550台——取引の中身をたどる
ここからが、今回いちばん驚いた部分です。
1977年6月16日、アディスアベバで予備調印。同年7月、ベルリンで正式な通商協定が締結されました。その内容は、1977年から1982年までの5年間、毎年5,000トンの生豆を東ドイツへ供給する、というものでした*6。
しかも協定からひと月も経たない同年7月、東ドイツ側の急な軍事支援要請を受けて、1977〜78年分は年7,000〜10,000トンへ引き上げる打診・合意まで行われたとされています*6。
対価として東ドイツから供給されたとされる物資は、研究によれば次のようなものでした*6。
- IFA W50型 重輸送軍用トラック 550台
- AKMアサルトライフル 64,500丁のほか、機関銃・拳銃や大量の弾薬
- スチールヘルメット、軍用医療用包帯
- 軍用乾パン(通称「ランベルツ・パン」) 7,000トン
トラック550台、、、ライフル6万丁超、、、数字を並べるだけで、ちょっと恐ろしいですが、、、
一方、実際に東ドイツへ渡ったコーヒーの量は、東ドイツ側の輸入統計によると、1977年が約6,549トン、1978年が約9,126トン、1979年が約10,016トンでした*6。
ところが。
この取引は、計画されていた5年間には遠く及びませんでした。1978年末には事実上破綻し、1979年1月からは東ドイツも通常の外貨決済に切り替えています*6。
破綻の理由として挙げられているのは、次のようなことです*6。
- エチオピア側が戦費調達のためドルを必要とし、価格が落ち着くと西側市場への売却の方が有利になったこと
- ECMCの集荷能力不足や、農民の密輸・転作、港湾の混雑による出荷の遅れ
- 東ドイツ側が武器やトラックを先に大量出荷した一方、コーヒーの返済が追いつかず、約6,000万マルクの未回収債権が生じたとされること
構想としては5年、実際に機能していたのはおよそ1年半、、、そう考えると、ずいぶん印象が変わってきます。

飢饉のさなかも、コーヒーは輸出され続けていた
1983年から85年にかけて、エチオピアは推定60万〜100万人が犠牲になったとされる大飢饉に見舞われました*7。
しかし、その最中もコーヒーの生産と輸出は止まりませんでした。1982/83年度が90,768トン、1983/84年度が97,894トン、1985/86年度は73,190トンです。飢饉が進行していた1984年、デルグ政権の10カ年開発計画では「コーヒー輸出10万トン」という目標がむしろ掲げられていたとされています*7。
飢饉の渦中にあった農家の方々は、苦境の中でコーヒー生産を強いられていたのかもしれません。
飢饉の原因をコーヒー輸出だけのせいにするのは、単純化しすぎだと思いますが、コーヒーが、その構造と無関係ではなかったといえそうです。
国家がコーヒーを握っていた時代と、いまの流通
デルグ政権は1991年に崩壊しました。
ここから、コーヒーの売り方が大きく変わります。それまでは、国が「1kgいくらで買う」と値段を決め、農家はそこへ売るしかありませんでした。この仕組みがなくなり、集荷と輸出を一手に握っていた公社(ECMC)も解体・再編されていきます*3。
2008年にできたのが「エチオピア商品取引所(ECX)」です。
まず、産地の倉庫に運ばれた豆を、検査係が味や品質を見て等級をつけます。その等級ごとに、首都アディスアベバでパソコンの画面越しに売り買いし、代金の受け渡しもその場で済ませる、、、という流れです。
コーヒーを輸出できる業者も、デルグ期の17社から100社以上へ増えました。オロミアやシダマでは、小さな農家が集まった協同組合が、自分たちで直接海外へ売るルートを作っていったとされています*3。
ただ、いいことばかりでもありませんでした。
初期のECXは「規格をそろえて、たくさんの豆を手早くさばくこと」を優先しました。そのため同じ等級の豆はまとめて扱われ、どの村の、どの農家が育てた豆なのかが途中で分からなくなってしまったのです。産地の名前で豆を選ぶ私たちからすると、これはなかなか困ったことですね、、、
その後、スペシャルティコーヒーを求める声に応えて、買い手と農家が直接やりとりする「直接取引」や、畑の位置を記録しておく仕組み(ジオタギング)が取り入れられました。おかげで「この豆はどこの畑のものか」が、また少しずつ分かるようになってきているとのことです。

まとめ:豆の向こうにある、国の事情を想像してみる
エチオピアにとってコーヒーは、嗜好品である以前に国家財政そのもので、その重みゆえに一時期は武器やトラックとまで交換される”通貨”として扱われていたようです。
戦争を同時にいくつも抱え、外貨をほとんど持たない国と、同じく外貨に困っていた東ドイツ。
その二つの事情が、コーヒーという一つの作物の上でたまたま重なった、、、それが1977年から1年半ほど続いた取引の正体だったのかもしれません。
ベトナムといい、東ドイツといい、歴史を追っていくと、暗い一面ばかり紹介しまい、書いている自分自身に嫌気がさしますが、スペシャルティコーヒーを愛するからこそ、今後も美味しいコーヒーを生産し続けてもらいたいと思うからこそ、このような歴史をしっかり見つめるべきか、と思います。
生産者の立場は私たち消費者とは全く異なる環境かもしれません。
私たちが思い描くような感動的なストーリーはそこにはなく、現実はもっとリアルで厳しく、もしかすると生きていくためにコーヒー生産をやめて別の作物に切り替えるかもしれません、、、
私たちが愛するスペシャルティコーヒーが目の前にあることは決して当たり前ではないかもしれません。そう考えると、歴史のリアルを見つめ、これからどうすべきなのか、考えるヒントがそこにはあるかもしれない、、、
ということで、今後も暗いコーヒーの歴史もしっかり調べて書いていこうと思います。
注記
この記事の数値・年号は、リサーチ時点で確認できた資料の範囲で整理したものです。輸出比率などの数値は年や定義によって資料間に幅があり、幅のあるまま紹介しました。武器・物資の数量は、当方が一次資料(シュタージ文書等)を直接検証したものではなく、それらを調査した研究者の記述に基づいています。また、エチオピア側の農民や公社関係者ご本人の証言は確認できておらず、本文の記述はいずれも研究者の分析を経由した情報である点をご了承ください。
参考文献
*1 Döring HJ. “Es geht um unsere Existenz.” Die Politik der DDR gegenüber der Dritten Welt am Beispiel von Mosambik und Äthiopien. Berlin: Ch. Links Verlag; 1999.
*2 Teshome Mulat. The Share of Coffee Producers in the Volume of Coffee Export. Ethiop J Dev Res. 1979;3(1):51-68.
*3 Alemayehu Geda. Trade Liberalization and the Coffee Sub-Sector: Some Implication for the Food Sub-Sector. Addis Ababa: Action Aid Ethiopia / Department of Economics, Addis Ababa University; 1999.(著者名は現地慣習により表記され、姓の特定は確認できていません)
*4 Wünderich V. Die “Kaffeekrise” von 1977: Genussmittel und Verbraucherprotest in der DDR. Hist Anthropol. 2003;11(2):240-261.
*5 Unfried B. Friendship and Education, Coffee and Weapons: Exchanges between Socialist Ethiopia and the German Democratic Republic. Northeast Afr Stud. 2016;16(1):15-38.
*6 Kloiber A. Brewing Socialism: Coffee, East Germans, and Twentieth-Century Globalization. Studies in German History, Vol. 27. New York/Oxford: Berghahn Books.(第4章 “Bread and Guns for Coffee: Searching for Coffee in Ethiopia and Angola”。刊行年は資料間で表記ゆれがあり確認できなかったため省略)
*7 Petit N. Ethiopia’s Coffee Sector: A Bitter or Better Future? J Agrar Change. 2007;7(2):225-263.
*8 Gutu SZ. Policy Options for Ethiopia’s Coffee Exports [research paper]. Montclair State University, School of Business; 1989.(本文中で直接は引用していませんが、あわせて参照した文献です)

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